2020年 03月 16日
「死」を毎日心にあてて生きるということ
「人間はいずれは死ぬのだ。私はこんなに愛している両親といずれは別れなければならないのか」と思うと悲しくて仕方がない。
そして、「こんなに悲しみが待っている人生なら生まれてこないほうがよかった」と嘆きたくなる。
Aさんの両親はAさんの嘆きを見て慰めた。
母親は言った。
「私たちが死ぬとしてもまだ先の話よ。その頃には、いい薬ができて、人間は死ななくてもいいようになっているかもしれない。あなたもお医者さんになってそんな薬を発明しなさい」
Aさんは真剣に「そんな薬をつくってやろう」と決心した。
しかし、自分が生きている間にそんな薬ができるという保証はなかった。
Aさんは一生懸命に神に長寿を祈る一方で、死ねばどうなるだろうか、苦しまないで死ぬいい方法はないだろうかと模索した。
父の懐中時計を借りて、何分間息を止めていられるかを練習してみた。
息を止めていられるのはせいぜい二分間だった。
Aさんは死を恐れていたが、せいぜい五分も苦しめば死ぬことができると思うと、一応安心した。
家には先祖伝来の日本刀があった。
Aさんは押入れの中からそれを取り出して、切腹の真似ごとをした。
弟にも付き合わせたが、弟は嫌がって逃げ回っていた。
「この刀で首を切り落とせば、五分も経たないうちに死ぬだろう」と思うと、瞬間的には死の恐怖から逃れられるように思った。
Aさんの異常な行動を心配した両親は、Aさんの手から刀を奪い、どこかに隠してしまった。
再び死に対する恐怖が頭をもたげてきた。
しかし、幼年時代のようにただ死を恐れてパニック映画のように逃げ回るのではなく、ある程度のあきらめを伴っていた。
「生まれてきた以上は死なねばならない。しょうがないじゃないか。限られた生命なんだから、生きている間はできるだけ楽しく、有意義に人生を送ろう」と考え出すようになったのである。
Aさんは現在、これといって信仰は持っていない。
しかし、「亡くなった父や母や妻の霊がいつまでも存在して、自分と一緒に生活をしてくれればいいのに」とは思う。
そして機会を見つけては墓参りをする。
霊の存在を信じているのではなく、存在してほしいという願望がAさんをそうさせるのかもしれない。
現代でも、宗教を熱心に信仰している人が大勢いる。
それを否定するつもりはさらさらない。
むしろ熱心に信仰できる神や仏をもった人たちをうらやましく思うことすらある。
Aさんには神や仏に代わる生きがいが必要なのかもしれない。
中国の有名な文学者・魯迅は、こんな一文を残している。
「窓から刑場に引かれていく囚人を眺めていると、彼は振り向きざまにこう叫んだ。
『今度生まれてくる時も、男一匹さ!』信仰を持っている人間は、死ぬ時も強いものだ」
信仰に限らず、何かを信じ、何かを支柱にして人生を送っている人は強いものである。
その一方で、不安におびえ、何もしないで毎日をグチばかりこぼしながら送っている人がいる。
特に病気はない。
それなのに自分は重病人だと信じ込み、学校や会社に行くことはおろか、家から一歩も出られないのである。
by jonysad10
| 2020-03-16 21:25
| 人付き合い