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人生は自分のためのものではない

人は私の欲するとおり行動すべきである、という考えがなぜおかしいのかといえば、それが非現実的(つまり非常識)だからである。

どのように非現実的か。

それは世の中の人々は私のサーバンドになるために生まれたのではない。

にもかかわらず人にサーバントを期待している。

そこがおかしい。

この事実をきちんと認めていないから、人の言動にいちいちケチをつけたくなるのである。

曰く「君はもっと愛想よくしなさい」「あなたはもっといい学校に行きなさい」という具合に。

そして相手がほいほいとこちらの願望どおりに動いてくれないといって怒ったり、落ち込んだりする。

たとえばレバノンの詩人が言ったように、子どもは母から生まれてきたのではなく、母を通して生まれてきた。

それゆえに母の所有物ではない。

母が所有権を行使して支配すべきものではない。

我が子でもそうである。

ましてや人の子に対して、あなたは自身の欲するとおりに考え、感じ、行動すべきであるというのは全く非現実的である。

では以上の所説からすると、親や教師は子どもの教育ができないのか。

上司は部下の躾ができないか。

そんなことはない、次の条件があれば人の行動にある方向を期待してもよい。

1.契約が成立している場合。通院してくる高血圧の患者に医師やナースは「塩分をひかえめにせよ」と指導する。

治療契約が成立しているからである。

街頭での通りすがりの人には何も言わない。

2.禁止・命令・要請の役割を分担していることが社会的に認められている場合。

プールや海水浴場監視の学生アルバイトは五十歳の男性に対しても必要ならば禁止・要請する。

子に対する親の躾も同じ原理である。

3.当人が現況に困っている場合。

ある方向を持った行動を当人に期待するのは当人のためであって、期待する側(例―親、先輩)の利益のためではない。

たとえばベターハーフに出会えないと訴える青年には結婚紹介所に出向くようアドバイスする。

そういう訴えをしない独身主義者に同じアドバイスをするのをおせっかいという。

話は元に戻るが人は自身の欲するとおりに行動すべきであると思うから、人が私の欲するとおりに行動しないといって、人をうらんだり、イライラしたり、びくびくしてしまったり、自信喪失や無力感に陥ったり、さらには自己嫌悪のかたまりになるのである。

人にはそれぞれの人生哲学がある。

それゆえ「あなたも私と同じ人生哲学で生きなさい」と強要するのは、私はウィスキーがすきだからあなたも日本酒をやめてウィスキーを飲みなさいというようなものである。

人の人生への敬意が足りない。

個人主義の哲学からはそう解釈できる。

では人の人生哲学に口ばしを入れてはならないのか。

そんなことはない。

質問を発して相手の考え方をわかろうとするのは許容される。

また、自分はこう考えるがどうかと迫ることはできる。

個人主義の哲学からみて避けるべきことは、相手の意向を考慮もせず、やみくもに「君はこう考えるべきだ」「あなたはこう感じるべきだ」「お前はこう行動すべきだ」と強要することである。

それを口やかましく言わないとしても、心のなかで思うだけでも個人主義の思想に反するのである。

心の中で思うだけでも、精神衛生によくない。

相手が期待どおりに動かないとイライラし、腹が立つからである。

人の言動に口頭であろうと心のなかだけであろうと、要するに介入しないというのは、いかにも冷淡に見える。

おせっかいをやく方が暖かくて、介入しない(自由主義、個人主義)のは冷淡か。

日本の旧感覚からすると冷淡に見えると思う。

しかしそれでもよいから、人の人生哲学には敬意を表する(無介入)方がお互いのためによい。

どのようにか。

介入されない方にすれば、この人生は自分の決断ひとつで決まると思えば、慎重にならざるを得ない。

人がこの学校に行け、この人と結婚せよと指定するから、あとの責任もとってもらおうじゃないかていどの心境になる。

もし自分の自由裁量ならその結果は自分が甘受することになるので、どうしても思慮深くなる。

レストランでメニューを見ながら考えているときの心理である。

おいしくないものをオーダーしたくない、お金は有効に使いたいと思うから考え込むのである。

すべては自由裁量だからである。

介入しない側にはどういうよいことがあるか。

相手が期待通りに動かなかったといって、怒ったり失望したりという心理的エネルギーのロスがなくてすむ。

何といってもこれが最大のメリットである。

その上、人間関係のトラブルも防げる。

たとえば知恵のある老父母が子ども夫婦の育児法に不満があっても、知らぬ顔、気付かぬふりをして、一切口出ししないのはそのためである。

では介入しないでどうするのか。

することが二つはある。

まず第一は「なおそうとするな、わかろうとせよ」である。

第二はこの人と人生のある期間をともに過ごすことは自分にとってどんな意味があるかを考えることである。

by jonysad10 | 2020-11-03 21:33 | びくびくしてしまう | Comments(0)